このページでは、中国文学についてウィキペディアから引用して解説しています。

中国文学(ちゅうごくぶんがく)とは、中国の文学、または中国語で書かれた文学のこと。それらの作品や作家を研究する学問のこと。


概論

「文学」という語の最も古い用例は『論語』先進篇にあり、孔子が弟子を才能別に4つのタイプに分けた孔門四科(徳行・言語・政事・文学)の一つとしてあげられている。北宋の邢昺の疏ではこれを「文章博学」と注釈しており、広く古今の文献や学問に通じていることであった。このように文学とは学問あるいはそれを基礎とした文化全般を広く指す言葉であり、現在のような狭義の文学の意味は、5世紀、南朝劉宋の文帝が建てた四学(儒学・玄学・史学・文学)に見ることができる。また以後、正史に立てられた優れた文人の伝記である「文学伝」もこの意味である。しかし、その文学とはすべて上流階層の文学であり、大衆文学である小説や戯曲などは近代に至るまで含まれることはなかった。このため「中国文学」として言及されるものには古来、中国人が「文学」として扱ってきたものと我々が近代学問としての「文学」の視点から語るものの両者があることに注意しなければならない。

また、古くから中国文学は政治を含めて現実生活を主題にしたものが多く、また政治に携わるものによって多く文学作品が作られてきた歴史がある。三国時代の魏の曹丕の有名な言葉「文章は経国の大業、不朽の盛事」で表されるように、中国人は文学に国を左右するほどの非常に強い力があると考えており、文学は政治と密接な関係があった。中国文学の特異性として宋代以降、文学の担い手が多く官僚であったことが挙げられるが、それもこの傾向を受け継ぐものである。

古来中国文学の主流は韻文であった。特に自然の景物や友情などを歌った叙情詩が多い。叙事詩はあまり栄えなかったが、古くは『詩経』の「公劉」、漢代の楽府「孔雀東南飛」、北朝の民歌に由来する楽府『木蘭詩』といった有名な作品がある。歴史や宗教、思想を述べたものを除けば、散文による文学が初めに栄えたのは唐の時代のことである。その散文も、例外を除き創作よりは現実に即したものが多く、その伝統は西欧文明の大きな影響の下に近代小説が生まれるまで長く続いた。なお古代中国においては韻文も散文も文学性を表す言葉というよりは、文章の文体を表す言葉であるので注意が必要である。このほかに駢文と呼ばれる文体がある。

長い歴史の中で、中国大陸ではいくつもの国が栄えては滅び、いくつかの民族が権力の座に立った。異文化の流入は文学にも影響を与えたが、一般的に中国文学といえば漢字による文学、中国語による文学のことである。

漢文、漢詩は日本語・日本文学の成立にも非常に大きな影響を与えた。

形式による分類

* -文語体-
o -韻文-
+ 詩
# 古体詩
* 『詩経』
* 楽府
* 古詩(狭義)
# 近体詩
* 絶句
* 律詩
* 排律
+ 辞賦
# 『楚辞』
# 賦
+ 詞
o -散文-
+ 古文
o -駢文-
* -口語体-
o -講唱文学-
+ 変文
+ 宝巻
+ 諸宮調
+ 説話
+ 詞話
+ 鼓詞
+ 弾詞
o -韻文-
+ 曲
# 散曲
# 戯曲
* 雑劇
o 宋雑劇
o 院本
o 元雑劇(北曲) - 元曲
o 温州雑劇(南曲)
o 南雑劇(南北曲兼用あるいは南曲)
* 戯文(南戯)(南曲)
* 伝奇(南曲)
o -散文-
+ 小説

歴史

先秦

各国の文学同様、中国文学も文字で書かれる以前から口承文芸の形で存在し、音楽性を伴った歌謡が歌われていた。はじめて歌謡を採集して文字の形で残したのが『詩経』である。『詩経』は古くは『詩』と呼ばれ、押韻を伴う四言詩であり、韻文の始祖と言えるアンソロジーである。「風(民謡)」「雅(宮廷音楽)」「頌(祭礼音楽)」の3つからなり、黄河流域で発生した。『詩』は戦国時代には儒家の重要な6つの経典、六経の一つに挙げられている。この後揚子江流域で『楚辞』が生まれ、これは後に賦へと続く。

散文では『尚書』という歴史書が編まれたが、これは政治演説集といった性格を持っている。また『春秋』という記事を羅列する歴史書が編まれた。これらも儒教の六経に挙げられている。戦国時代になると、諸子百家と称される思想家たちが『論語』『老子』『荘子』『韓非子』『孫子』といった哲学的・思想的な作品を残した。歴史書では『春秋左氏伝』といった作品が残されている。

東洋哲学および 老荘思想も参照

漢代

漢代では韻文では『楚辞』の系統である賦が隆盛し、司馬相如らが活躍した。武帝の時、音楽採集を担当する官署である楽府によって民間歌謡が採集され、楽府と呼ばれた。

散文では、司馬遷によって『史記』が著され、後代に歴史書編纂に大きな影響を与えた。

魏晋

この時代、民間の歌から五言詩が生まれた。一行五音(五字)にそろえられたこの形式はその後数百年にわたり文学の中心になった。 三国時代の魏国の親子曹操、曹丕、曹植(192年 - 232年)、その後の阮籍(210年 - 263年)らが知られる。後漢の建安年間(196年 - 220年)に曹操らによるサロンを中心に栄えた新しい文学を建安文学と呼ぶ。建安の七子と呼ばれる人々が活躍した。阮籍や嵆康らの詩風は魏の正始年間(240年 - 249年)から正始体と呼ばれている。

西晋が中国を統一すると、陸機・左思などが活躍する。続いて南北朝時代に入ると、陶淵明(365年 - 427年)が活躍した。

南北朝時代

その後、宋・斉・梁の3代にわたって活躍した沈約や、沈約が出入りした南斉の竟陵王蕭子良の西邸のサロンが文学の中心となる。沈約と共に、その西邸の「八友」に数えられた蕭衍も当代一流の文化人であり、梁朝の創業者ともなる。また、蕭衍の子の昭明太子蕭統が編纂した『文選』は古代より六朝に至る主要な名文を集めたアンソロジーとして中国の後代のみならず、日本においても広く受容された。さらに、梁の劉勰は、文学理論書である『文心雕龍』を著した。なお六朝時代に隆盛した文体は対句や典故を多用する駢文である。

小説は、『捜神記』や「桃花源記」に代表される志怪小説が発達した。

この時代、史学という学問も独立へと向かい、文学と併せて、中国独自の経(儒教)・史(史学)・子(儒教以外の哲学)・集(文学)という学問体系の基礎が形成される。

唐代

唐の時代に入ると詩は宮廷を離れ、李白(701年 - 762年)、杜甫(712年 - 770年)、王維らによる詩の黄金期が築かれた。従来の古詩に絶句・律詩といった近体詩が加わった。

8世紀後半には白居易(白楽天)の活躍が見られた。この時代の散文は四六駢儷体という美文で書かれた。また韓愈(768年 - 824年)は詩のみならず、散文で文学と呼べる作品を残し、韻文中心だったそれまでの文学に新しい流れを作った。四六駢儷文にかわって古文と呼ばれる古い自由な文体を用いた。

六朝の志怪小説は、唐代になると「伝奇」や「古鏡記」などの伝奇小説へと発展する。しかし、北宋以降には、再び志怪小説へと回帰してしまう。『夷堅志』や清代の『聊斎志異』がその代表である。

『遊仙窟』が著されたが、しかし中国では散逸してしまい、日本で残った。

宋代

詩では宋代初期には晩唐の煌びやかな詩風が踏襲され、真宗期には李商隠の詩風を模した西崑体が隆盛した。その代表的な詩人には楊億・劉筠・銭惟演がいる。

そのなかで王禹偁は質朴平淡な自然体の詩を作った。仁宗期に入り、欧陽脩に重んじられた梅尭臣と蘇舜欽らが清新な詩を作り、それまでの詩風を一変させた。これにより貴族による抒情的て美的な詩風を特徴とする唐詩に対し、士大夫による知性的で政治的な詩風を特徴とする宋詩の基礎が確立された。

神宗期に入ると、王安石が政治的な議論詩を多く作った。そして、蘇軾(蘇東坡)(1036年 - 1101年)は機知に富んだ優れた作品を残し、後世に大きな影響を与えた。蘇軾の門下に多くに優れた詩人が現れたが、特に黄庭堅は蘇軾に匹敵するとされ、世に「蘇黄」と称された。南宋時代、黄庭堅を模した詩風がを隆盛し、江西詩派と呼ばれる一派を形成した。

宋が南渡した激動期において唐詩の抒情性への回帰が見られ、その詩風は南宋四大家と呼ばれる陸游・范成大・楊万里・尤袤らによって発展させられた。南宋後期になるといくつもの流派が形成され、そのなかで江湖詩派が有名である。江湖詩派では下級官僚や山林の隠士など政治上の地位がない小詩人が活躍した。南宋末、元の侵攻のなか、文天祥など愛国の詩が詠まれた。

宋代は「詞」とよばれる歌謡文芸が隆盛し、宋詞と言われる。宋詞の詞風は大きく8種類(北宋5、南宋3)の類型に分けられる。そのなかで最も影響力があったのは豪放詞と婉約詞であり、豪放詞の代表的な詞人は蘇軾・辛棄疾であり、また劉過・陳亮・劉克荘がいる。婉約詞の代表的な詞人は柳永・秦観・晏殊・李清照であり、また欧陽脩・周邦彦・姜夔・晏幾道らがいる。

宋代小説は説話の底本である「話本」を主とする。長編小説には『新編五代史平話』『大唐三蔵取経詩話』『大宋宣和遺事』『三国志平話』などがある。

元代

元の時代には雑劇と散曲が隆盛した。これを総称して元曲と言う。また小説が書かれるようになる。これらはそれまでは俗な物とされて、立派な人物が手がけるものではないとされていた。しかし元の支配下ではそれらの立派な人物、つまり漢人の官僚は冷遇されて官途につけなかったのでこう言った物に手をつけるようになったのである。それが民間の文学の活力を生んだ。

明代

14世紀、明初には劉基、宋濂、方孝孺らが活躍した。永楽年間(1403年 - 1424年)には、上級官僚の手による台閣体と呼ばれる封建道徳を宣揚する文風が起こった。その代表的な作家には楊士奇・楊栄・楊溥のいわゆる「三楊」がいる。台閣体はその後、宮廷御用的な傾向を帯び、無気力で凡庸な作風に陥った。

成化期には李東陽を代表とする茶陵派が登場し、台閣体に代わる新しい文学の模索が始まり、復古主義的な傾向を打ち出した。弘治(1488年 - 1505年)・正徳(1506年 - 1521年)年間には、李東陽が科挙によって抜擢した李夢陽・何景明ら前七子が活躍し、低迷沈滞していた文壇に活力を与えた。彼らは「文は必ず秦漢、詩は必ず盛唐」を標榜して擬古主義を提唱した。理想とする古人の詩文の「格調」を模擬して創作することを主張し、「格調説」と称される文学理論を展開した。この傾向は、嘉靖(1522年 - 1566年)・隆慶(1567年-1572年)年間に活躍した李攀竜・王世貞ら後七子によって継承発展された。彼ら七子派が模擬創作した擬古文を、唐宋の古文と区別する場合、古文辞という。日本では江戸時代に李攀竜に傾倒した荻生徂徠が古文辞の普及に努め、古文辞学を提唱している。

一方、七子派の擬古主義に反対する流派も現れた。王慎中・唐順之・帰有光・茅坤らは宋儒の「文道合一」の主張に共感し、「文必秦漢、詩必盛唐」の主張を斥けた。唐宋八大家を顕彰し、唐宋派と呼ばれる。万暦年間には李贄(李卓吾)が現れて、復古模擬の文学に反対し、創作は古典的な規範に束縛されず、自らの心の発抒にもとづくべきだと主張した。李贄に師事した袁宗道・袁宏道・袁中道三兄弟(三袁という)ら公安派は文学にはその時代に特徴的なものであるべきとして復古主義を斥け、自己の胸臆にある性霊の発抒こそが真詩であるとした。このような革新的な主張も当時の擬古主義の大勢を崩すにはいたらなかったが、鍾惺・譚元春ら竟陵派の自由奔放な文学批評の活動が人々に受け入れられ、明朝末期に清新な文風が生まれることになった。

明代には白話小説が発展し、「三言」と「両拍」と呼ばれる短編小説集が編まれ、広範な題材を扱った。また明の時代には長編小説が現れる。有名なものに『水滸伝』『三国志演義』『西遊記 』『金瓶梅 』があり、まとめて四大奇書と呼ばれる。

清代

清代には長編小説の傑作、『紅楼夢』や『儒林外史』が描かれた。

文学革命以降

辛亥革命以降、西洋文化の流入と近代化により中国文学は大きな変化を遂げた。文学革命が起こり、近代小説が発生して文学の中心になった。魯迅の『狂人日記』『阿Q正伝』が書かれ、老舎、丁玲らの活躍が続いた。『支那的一日』を著した茅盾は、中国共産党より魯迅の後継者とみなされた。中華人民共和国成立からしばらくの間は、毛沢東の『文芸講話』が指導的文献とされ、作品の思想性が重視された時代もあったが、その後は莫言のマジックリアリズムの文学のような純文学とともに、金庸らによる大衆小説や現代文学が大きく花開いた。一方、古来の近体詩は衰退して行った。あたらしく、北島や戈麦のような新しい詩人も現れた。

しかし、老舎が文化大革命時に自殺に追い込まれたり、中国語作家最初のノーベル文学賞受賞者が中国を亡命してフランス国籍を取得した高行健であったなど、政治との間に緊張関係が存在することも、近現代中国文学発展や研究の課題である。現代中国文学は、優秀な人材を輩出していて、年少作家も多く出ている。

関連項目

* 中国文学者
* 中国史
* 元号一覧 (中国)
* 小説家一覧
* 文芸評論
* 武侠小説



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http://kansaitei.hiho.jp/

中国(ちゅうごく、拼音: Zhōngguó)とは、世界の中心を意味する空間的概念を基礎とする自称であり、夷狄と対置される。中原(ちゅうげん)は中華文化の発祥地である黄河中下流域にある平原のことであり、中原漢民族が居住していたことからこの名称が用いられるようになった。ベトナムでは、阮朝が自国を中国(チュンコック)と呼んだ。漢民族や華夏族が居住した地域の文明では、19世紀半ばの清から自称として広く用いられようになり、次第に固有名詞としての性格を濃くしていった。現在ではその地域、文明、民族を広く指し、また後にそこで成立した中華民国、中華人民共和国に対する略称としても用いられる。

概要

現在の中国では、地理的にはアジア大陸の東部に広がる地域、亜大陸とそれに付随する島嶼を指して使用している。またその地域に紀元前から継続する文明の総体を指して使用している。この地域は様々な民族が入り混じっており、現在中国の中心となっている漢民族をはじめとして、一時全土を支配していたモンゴルなど、様々な民族による異なる王朝が出現、滅亡、戦乱を繰り返してきた。戦後、一時合作していた中国共産党と中国国民党が再び全面戦争を行った。この戦いに勝利し、大陸部を実質的に支配した中華人民共和国と、敗北し日本から領土を回収し、実効支配した台湾に後退して大陸支配の正当性を訴える中華民国という二つの国家に分かれた。この分断は現在に至り、両岸問題という形でいまだ政治的な問題として存続している。

日本で使用され始めたのは、中華民国政府の要求で外交文章として登場した1930年からである。ただし、日本で一般的に使用されたのは第二次世界大戦後のことである。それ以前は支那(しな)、唐(から)、唐土(もろこし)などと呼ばれていた。

名称

「中国」

中国は「国の中心」、または中華思想に基づき「世界の中心」を意味している。中国と言う用語は中国の古典である ‘詩経’で最初に使われた。 詩経で使われた ‘中国’は四方と四夷 (中国四方に居住した辺方民族)の対称される概念で使われた。‘中心部(Center)’と言う意味で初めて使われた‘中国’は政治と軍事的な意味の統治境界を設定する意味で徐徐に民族間のアイデンティティを境界を作る意味に拡張されて行った。漢族と辺方民族の境界を象徴する‘中国’という用語は孔子とその他思想家たちの潤色を経りながら‘文化的優越性を持った中心部’という意味で深くなった。 ‘中国’という用語が主権国家の概念での使用は 1869年に調印されたネルチンスク條約で当時清朝の外交使臣が自らの身分を称する時 ‘中国’と言う用語を満洲語で初めて使った。外交文書上で漢文の‘中国’が使われた用例は1842年阿片戦争の敗北で中国清朝がイギリスと結んだ南京条約が最初のことと知られている。本来は特定の民族、国家を指す語ではないが、中心地域に中原漢民族が居住していたことからこの名称が用いられてきた。辛亥革命以前は「国家」という概念が無く、『「天下」あって「国家」無し』という状態だったため王朝の名前が使われたようであるが、辛亥革命後に近代的な国民国家形成を目指し1912年に中華民国が成立してから後は、中華人民共和国・中華民国のそれぞれの国号の略称にもなった。

「中華」

本来「華」は「夷」「戎」「蛮」「狄」「倭」などの周辺民族に対して、優れた文化を持った者を意味し、黄河の流域に都市国家を築いて漢民族を形成していった人々によって自称として用いられた。ここから、「中心の国に住む優れた文化」という意味の「中華」は‘地理的中心部’という意味だけではなく ‘中国民族アイデンティティ’と ‘華夏文化の優越性’という要素が一緒に溶けている用語である。現代中国の立場で使われる ‘中華’と言う用語の中で漢族の自己同質性と言う要素は ‘多民族の仲直りと統一’と言う要素に変わるようになったし多民族の構成員が主体になって建設した ‘中国文化の優越性’だけが共通分母で落ち着くようになった。その持ち主という意味の「華人」という呼称が生まれ、中華人民共和国・中華民国の国号や「華僑」「中華思想」という言葉はこれに由来している。

「セーレス」

古代ギリシアでは中国の商人はセール(σηρ)(複数形:セーレス(σηρεσ))と呼ばれた[1]。 しかし、やがて後述する「チーナ」に由来する「スィーン」が伝わるとその系統の呼称に取って代わられた。

「秦」に由来する呼称

漢字圏以外からは、古くは秦に由来すると考えられるチーナ、シーナという呼称が一般的に用いられ、古代インドではチーナスタンとも呼んだ。これが仏典において漢訳され、「支那」「震旦」などの漢字をあてられる。この系統の呼称はインドを通じて中東に伝わってアラビア語などの中東の言語ではスィーン (Sīn) となり、ヨーロッパではギリシャ語・ラテン語ではシナエ (Sinae) に変化する。また、更に後にはインドの言葉から直接ヨーロッパの言葉に取り入れられ、China(英語)、Chine(フランス語)などの呼称に変化した。

日本でも「秦」に由来して、江戸時代初期より支那の呼称も使用されていた。詳細は、支那#言葉の由来と歴史を参照。

「漢」に由来する呼称

最初の統一王朝ながら短命に終わった秦王朝に代わって400年間に渡って中国を支配した漢王朝(前漢と後漢)の時代に、漢民族を中心とする中国の版図は定着していった。そのため、「漢民族」や「漢字」のような言葉に漢の字が使われている。

「拓跋」に由来する呼称

7世紀末から8世紀初頭の突厥(第二突厥帝国)の人々が残した古テュルク文字の碑文において中国の人々を指して使われている呼称に「タブガチュ(タブガチ、Tabgach、Tabγač)」があり、北中国に北魏を建てた鮮卑の拓跋部、拓跋氏に由来すると考えられている(白鳥庫吉やポール・ペリオらの説。桑原隲蔵は唐家子に由来するとの説、つまり唐由来説を唱えた)。

タブガチュの系統の呼称は、1069年のクタドグ・ビリク (en:Kutadgu Bilig) におけるタフカチやTamghaj、Tomghaj、Toughajなど突厥以後も中央アジアで広く使われた。1220年-1224年に西方を旅した丘長春(長春真人)は「桃花石」と記録している。11世紀-12世紀のカラハン朝においては数人の可汗がTabghach (Tavghach) という名である (en:Qarakhanid dynasty) 。しかしモンゴル帝国の時代前後に後述するキタイに取って代わられた。

なお古テュルク文字碑文以前、東ローマ帝国の歴史家テオフィラクトス・シモカッタ (en:Theophylact Simocatta) の7世紀前半に書かれたとみられる突厥による柔然滅亡(552年)関連の記事にタウガス (Taugas) との記載があり、これも同系統の呼称と思われる。記事が書かれた時期は隋末-唐初期と思われ、柔然の滅亡は西魏から北周、東魏から北斉への禅譲と同時期となる。

「唐」に由来する呼称

江戸時代以前の日本の人々は、しばしば遣唐使を通じて長く交渉を持った唐の国号をもって中国を呼んだ。古語で外国を意味する「から」の音を唐の漢字にあてる例も多い。中国を「唐土(もろこし)」と呼称したり、日本に来航する中国商人は「唐人(からびと、とうじん)」と呼ばれ、文語の中国語を「漢文」というのに対して口語の中国語は「唐語(からことば)」と呼ばれた。

「契丹」に由来する呼称

11世紀頃に中国の北辺を支配したキタイ(契丹)人の遼王朝から中央アジア方面ではキタイ、カタイという呼称が生まれた。ペルシア語やテュルク語を通じて中国の文物の名前を知ったと見られるマルコ・ポーロは、北中国のことをキタイという名で記録した。ロシアでは現在も中国のことをКитай (Kitay) と呼んでいる。

西ヨーロッパにはCathayとして伝わり、キャセイパシフィック航空の社名などに使われているが、Chinaに比べるとあまり広汎に用いられる呼称ではない。

歴史

中国の歴史を参照

政治

中国の歴代王朝は自らが人類の唯一の国家でありそれ以外は国の辺境に過ぎないという態度を取ってきた。故に中華王朝には(対等な国が存在しないのだから)対等な関係の外交というものは存在せず、全て朝貢という形を取っていた。

しかし近世に入りロシア帝国の南下の圧力が強まるとやむを得ずロシアを国家と認めた。

地理

中国は気候や風土の違いから大きく華北・華南・華東・華西に分けられる。華南人と華北人の気質の違いは古来からよく対比されてきており、日本人が関東人と関西人をよく対比するのと相似的である。華南と華北を区切るラインはほぼ秦嶺(チンリン)山脈から淮河(ホワイ川)に一致し、これは年間降水量1000mmのラインでもある(秦嶺・淮河線)。ここより南側の華南では湿潤で温暖湿潤気候 (Cfa) にあたり、アジア的稲作農業が行われる。長江(チャン川、揚子江)をはじめとして河川・湖沼に富み、水上交易も古くから盛んであった。華南地域の中心的都市は上海であり、現在も貿易の拠点として重要である。

これに対して華北は比較的乾燥して温暖冬季少雨気候 (Cw) や冷帯冬季少雨気候 (Dw) にあたり、畑作農業が中心となる。華北平原と呼ばれる平野地帯が広がり、陸上交通が発達した。華北の中心的都市は中華人民共和国の首都でもある北京である。こうした南北の風土の違いは「南船北馬」などの慣用表現にも反映されている。

また華北では異民族王朝として侵入したモンゴル人・満州人などとの混血が、華南ではもともと中原以南に住んでいた越人や閩人といった異民族との混血・吸収があり、それぞれの言語や風貌に大きな違いを生じさせている。

古くから中国人は自分達の住んでいる黄河流域周辺を文明中心地として誇り、周辺地域を自分達の中国に対して辺境とみなし蔑んでいた。その地域に住む人をそれぞれ「北狄」(ほくてき)、「東夷」(とうい)、「西戎」(せいじゅう)、「南蛮」(なんばん)、「外倭」(倭寇)、と呼んでいた。

民族

漢民族が多数を占めるが、中国東部の漢民族の版図とされる地域を含め、漢民族以外の数多くの民族が居住しており、中華人民共和国政府が公式に民族として認定しているものだけでも少数民族は55を数える。これら漢民族を含め、全ての民族を中華人民共和国憲法では「中華民族」と規定している。

文化

黄河文明以来、中国は東アジアの文化の中心地であり周辺諸国へ多大な影響を与え続けた。

サミュエル・P・ハンティントンは『文明の衝突』で儒教を中心とした儒教文明と呼んでいる。